ラトヴィアのエピソード集

PDFファイル: より快適に読み印刷いただくことができます​​​​​​​

2016年8月31日

ラトヴィア投資開発公社

1. 国際都市リーガ

(1)    リーガ市地域は13世紀ドイツ騎士団に占領され、中世時代はハンザ同盟の港湾都市としてバルト海東部最大の偉容を誇った。1562年にはリトアニア・ポーランド連合軍に、1621年にはスウェーデンに占領された。スウェーデン時代にはリーガはストックホルムを凌ぐ大きな都市であったと言う。1710年スウェーデンが北方戦争に敗れた結果ロシアの支配下に入り、1918年に分離、独立するまでロシア帝国の一部であったが、リーガはサンクト・ペテルスブルグに次ぐ帝国第2の商工業都市として発展した。

(2)    ロシア内陸部に源を持つ大河ダウガヴァの河口近くに位置するリーガは古来西欧、北欧とロシア東部、南部の交易を支配し、ロシア、リトアニアの穀物、麻、中欧から塩、ワイン等を売買していた。ダウガヴァ河口より220キロメートル上流のダウガヴピルス近郊の遺跡からは多数のヴァイキングの遺物が発見され、同地にその勢力が及んでいたことを示している。

(3)    中世から近世に掛け、支配者が度々交替したが、リーガの商業を支配していたのはドイツ人を中心とする国際的商人であった。職人の集会所であったスモールギルドの壁にはドイツ語の格言が書かれ、また、壁には当時の会長の肖像が残っているが、そこにはドイツ名はもちろん、英語系、イタリア語系等の名前も散見される。中世、ロシア帝政時代を含めリーガ市の共通語はドイツ語であり、人並みの人士として認められるため、誰もがドイツ語を話した由。これらバルト・ドイツ人は、1939年モロトフ・リッペントロップ協定に従い、ヒットラーの命令により全員引き上げ、今は残っていない。しかし、ラトビア語はドイツ語からの借用が多く、また、文化全体ドイツの影響を色濃く受けていると言う。

(4)    このとおり、リーガは、ドイツ人等欧州各国人が参集、競合、協力していた国際都市であった。ラトヴィア人の名前は、バルト系、ドイツ系、ロシア系等多くの系統があり、また、これらの要素が融合、混合している。

2. 工業国ラトヴィア

(1)    ラトヴィアは帝政時代にはサンクト・ペテルスブルグに次ぐ帝国第2の商工業都市であったが、ソ連併合後も連邦内において重要な工業地域、生活水準の高い地域であった。日露戦争時日本海において壊滅したバルチック艦隊は、ラトヴィア西部リエパーヤ港外にて集結後遠征に出発したことも想起される。同地の軍港には巨大なロシア正教会、ドック等があり、観光スポットとなっている。

(2)    1861年にはリーガ、ダウガヴピルス間に最初の鉄道が開設、翌1862年にはリーガ工業大学が設立された。1886年には自転車、1899年には自動車、同年リエパーヤ港にて潜水艦が建造された。1901年には水力発電、リーガ市内に市電の運行が開始、1910年には飛行機が製造された。1938年に製造が開始された小型キャメラ・ミノックスは当地で開発、製造されたものである。ソ連時代にも家庭電化製品、救急車等が生産されたが、ソ連からの独立とともにマーケットを失った。

(3)    現在なお、すべての機関車、多くの市電は国産品であり、また、一部の薬品には国際的競争力がある。グリンデックス社はバルト地域最大の薬品会社であり、世界37国に製品を輸出している。我が国にもフトラフル(Ftorafur、癌の医薬品)を輸出している。

3. リーガ市の建設

(1)    リーガは城塞都市として誕生した。ドイツ騎士団の侵攻が始まった12世紀以降、支配者、商人が住む旧市街は高い土塁に囲まれていた。土塁の高さは建物4階分、厚さ35メートルあった。旧市街、新市街間を隔てる公園緑地内には小さい運河が流れているが、以前は90メートル以上の幅員を持つ堀割であった。春先の洪水時期には土塁の各所に築かれていた門を閉鎖、内部より補強することにより、市内に洪水が流れ込むのを防いだ。1855年ダウガウ河を遡上した英国軍艦がリーガを砲撃、土塁の無用が明らかになり、この撤去が始まった。大量の石、土が移動され、現在の公園緑地整備等に利用された。

(2)    123メートルの高さを誇るペーテル教会の尖塔は、中世時代欧州一の高さがあった。軍勢がリーガに押し寄せた時には尖塔の見張りが教会の鐘を鳴らし、市民に危機を知らせた。

(3)    土塁に囲まれた旧市街の居住環境は最悪であり、汚物が旨く処理できず、疫病も頻繁に発生した。このため、土塁の撤去後1860年頃より新市街の建設が始まり、一大建設ブームとなった。リーガを彩るアールヌーボーと呼ぶ、彫刻等の壁面装飾建築は19世紀末から20世紀初期のものである。

(4)    旧市街と新市街を繋ぐ公園緑地は以前湿地帯であった。埋め立て後市民の憩いの場として順次拡大、整備され現在に至っている。最初の公園ヴェルマンダールズのヴェルマンは土地を提供したヴェルマン家に因んでいる。ダールズは庭の意。

(5)    リーガ旧市街、新市街の中心部は建物間に隙間がなく、一ブロックは巨大なビル、または、壁の様相を呈している。これは18世紀に新市街を計画した建築家フェルスクー以降、都市住民に最大の空間を与えるとの明確な目的のため、リーガの為政者が建物の高さは道路の幅を越えてはならない、建物間には隙間を開けてはならないとの基本原則を守って来たためである。

4. ユールマラ

(1)    リーガの西隣10キロメートル、車で30分の距離にラトヴィアの真珠とも呼ばれる保養地ユールマラ(海浜)がある。リーガ湾と大河リエルペに挟まれた砂丘の土地で、32キロメートルにわたり白砂の海岸と緑の松林が続いている。大昔はほそぼそと漁業が行われていたが、19世紀初頭に海水浴の医療効果が認められたあと、徐々に観光、保養・療養地として開発された。鉄道が敷かれ、ロシア各地からユー
ルマラに直接乗り入れるようになった。

(2)    一戸建ての別荘、多数のホテル、中心地マヨリの繁華街等から成り立っている。ここには、また、ラトヴィア議会の設宴会場、大統領別邸、各国大使公邸等もある。ケメリ国立公園中には故コスイギン首相の別荘もあった。建物は今でも存在している。ユールマラは、リーガ東方郊外に位置するメジャ・パークス(森林公園)とともに、極めて土地の値段の高い所であり、ロシア、CIS諸国人の所有になるものも多いと言う。

(3)    遠浅の海岸のため波はおだやかだが、晩秋には強風が吹きつけ、荒れた空模様が続く。冬には流氷が押し寄せ、海は遠くに見えるが、休日には相当の人出があり、雪の海岸をスキーしたり、黙々と歩き続ける人達がいる。

5. 日本語教育

ラトヴィアにおいては日本語教育が盛んに行われている。ラトヴィア大学東洋学科及び「リーガ文化学校」が中心的役割を果たしているが、学習塾「日本語・日本文化スタジオ言語」もある。このうち特に「文化学校」は当初「リーガ日本語文化学校」と称した日本語教育を中心においた特異な公立学校であった。2001年に生徒数不足を理由とし、市の政策に従いキリスト教学校と合併したが、今でも、日本語が第2外国語として学ばれ、小・中・高生徒に対し一貫教育を行っている。

6. ソ連崩壊はバルトに始まった

(1)    1985年に登場したゴルバチェフ首相のペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(開放性)政策を受けて、バルト諸国民は公然と政府の政策に反対し、ソ連統治反対、独立回復の示威行動を開始した。その後、数年にわたる国民的行動の後、1991年8月19日にモスクワで反改革派のクーデターが失敗した機を捉え、21日にラトヴィア共和国最高会議が独立を宣言した。

(2)    ラトヴィア独立がソ連憲法、法令の手続きに則り、段階的、合法的、平和的に達成されたことが注目される。最終段階では、ソ連内務省特殊部隊による武力行使もあったが、数名の死者を出しただけで、人的、物的損害は最小限に押さえられた。多くの機会を捉え、独立の願望と意志を示す示威行動が行われたが、中でも、1989年8月23日(バルト諸国併合をもたらしたモロトフ・リッペントロップ協定締結50周年記念の日)に50万人の人々がエストニア・タリン、ラトヴィア・リーガ、リトアニア・ヴィルニウスの3首都を繋いだ人間の鎖「バルトの道」は特に有名である。

(3)    ソ連崩壊後、旧ソ連邦諸国は独立国家共同体を構成したが、バルト諸国は加盟しておらず、例外となっている。

7. 歌の祭典

ラトヴィアでは5年毎に歌の祭典(正式には「歌と踊りの祭典」)が行なわれる。ラトヴィアにはダイナと呼ぶ民謡があり、民族誕生以来面々と歌い繋がれて来た。立春、夏至、立秋、冬至など季節の移り変わり、種まきや収穫と言った農作業、道具や日常品、家畜と言った農民生活、洗礼、結婚、埋葬等人生の慶弔に因んだものなど、ラトヴィア人の生活、人生諸事全般にわたり、その喜怒哀楽を歌いこんで来たものである。このため、「歌うことはラトヴィア人としての証である」と言われるごとく、ラトビア人は皆歌い、楽器を演奏する。今日までに収集された詩の総数は120万にも上ると言われ、一人、一人に民謡があるとも言う。全国的祭典は、帝政ロシア治世下の1873年に始まった。民謡を歌うこと自体が民族的意識の覚醒そのものであった訳である。ステージ中央に立つ指揮者のタクトの下、万単位の合唱団が合唱し、これを上回る多数の観衆が聞き入る。世界広しといえどもこのような情景は他に例がない。歌の祭典は、エストニア、リトアニアにもあり、このバルト三国共通の文化遺産は、2003年11月にユネスコの「人類の口承無形文化遺産」に登録された。2013年には6月30日より7月7日間の期間に実施され、日本からも2団体が参加し、合唱に加わった。
(了)